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虫魂碑(ちゅうこんひ)

 40年近く前になりますが、奈良県五條市の慈光会、梁瀬義了先生のところを訪れた時のことです。梁瀬先生のご案内で慈光会直営農場を見学させていただきました。農場の向かいの山は行政の開発する農場の造成で、山に大きなブルドーザーなどの重機が入って山肌を削り人工的に農地を作っていました。慈光会直営農場は大掛かりな造成ではなく、自然を生かして開墾された農場でした。畑にはキャベツなどの野菜が植えられていましたが、畑の傍に「虫魂碑」というのが建立されていました。「忠魂碑」というのは見たことがありましたが、「虫魂碑」というのは始めてで、さすがに仏教者、僧籍のある方だなと思いました。いつもご自宅でご近所の方を招き説法をされていましたが、先生の法話を楽しみに大勢の方が見えておられました。私も出席してお聴きしたことがありますがその頃は、有機農法について多く語られ、死の農法から生の農法への転換が国を救うことになる、救国の農法として力を込めて語っておられました。

 
 農場には沢山の昆虫やミミズなど土中に生息している生き物がいます。刈払機で草を刈っているとき振動に驚いてミミズが土の中から這い出して、草と一緒に切ってしまう時があります。またカエルが飛び込んで来る時もあります。草の陰で見えないときは切ってしまう時もあります。トカゲなどはすぐ前を這っていきます。なかなか逃げません。切れへんかとひやひやしますが、急ぐときは手で掴んで安全なところに放り投げます。耕運機やトラクターで耕耘する時はハクセキレイや鴉が飛んできます。セキレイは土の中から出てくる虫を取って食べます。鴉も虫を食べますが主にカエルを取って食べます。
 
 有機農法でも害虫は駆除しなければなりませんので、作物を作るためには沢山の虫などの生き物が犠牲になります。梁瀬先生は僧侶になる資格を持ったお医者様で慈悲を説き、有機農法を広め、国民の生命と健康を守る働きを始められた有機農法の先駆者です。一方で小さな虫なども憐れむ優しい心を持ち慈悲を実行された先生です。その証が「虫魂碑」です。私も農業をするようになるとは思いませんでしたが、ご縁をいただいて現在は有機農法による農家レストランを経営していますが、いつも梁瀬先生のことを思い出しながら、先生に教えられたことを実践しながら、国民の生命と健康を守る農法と、健康長寿食の研究を続けていきたいと願って励んでいます。
 
 

トラクターに乗る料理人

 岡山に移住して13年目になります。2001年に初めて桜が丘に来た時、周辺の地域を見て回り、旧農村地域と新興住宅地が隣接する、都会でもなくあまり田舎でもない、着かず離れず、程よい関係の街かなと思いました。最初、家を建てていただいた工務店の社長さんのご紹介で農地を借用しました。家を建て始めたころより休日には大阪から通って来て、家の裏の斜面を整備したり、借りた農地を耕し、作物の植え付けをしました。2002年7月初めに大阪から移転してきました。開店は1週間後でしたが、畑には夏野菜が育っていて結構間に合いました。この農地は1年で返し、役場に相談に行って3軒の農家から5反余りの農地を借用することになり現在まで続いております。


 とりあえず小型の耕運機(管理機)を購入し耕し始めました。1枚の田はプラムなどの果樹を植え、1枚はブルーベリーを植え、残りの3枚で野菜と黒大豆を栽培しました。その後、大阪愛農時代にお世話になっていた吉井町是里(現赤磐市)の愛農会の生産者K氏の勧めで米を作ることになりました。米が2枚(2反余り)黒大豆1枚(1反余り)ブルーベリーは田での栽培を中止して家の周辺に移植、2012年にはプラムの木も切り、2014年には小豆を少量ですが栽培しました。現在は米2枚(2反余り)黒大豆1枚(1反余り)野菜1枚(1反弱)小豆(1反弱)の栽培となっています。大型の農機や専用の農機具が無いため、田の耕耘や田植え、稲刈りなど他の農家の助けを得てやっておりますが、ぜめて、耕すぐらいは自分でやりたいと2012年になって乗用トラクターを購入しました。


 60歳になって農業をはじめ、70歳になってトラクターに乗るようになりましたが、まさか本当に農業をするなんて思っていなかったところに、普通であれば現役を引退してもおかしくない年齢ではありますが、今はトラクターに乗り田畑を耕し、田の代掻きもして作業範囲が広がりました。昨年は農協から黒大豆の脱粒機を借り、自分で脱穀をしました。田植えと稲刈り、乾燥籾摺りは人手に頼っていますが稲作用の機械の購入、設備は不可能なことですので、これからも他の農家の方に助けてもらわなければ出来ませんので、中途半端な状態です。借り農地ですのでやむを得ないのです。


 私は料理人です。料理人は材料を調達して料理を作っていればいいわけで、通常、農業までしなくてもいいのです。私は料理人の線を越え、農業の世界に入ってしまったのです。よく私は言いますが、農場は第二の厨房です。本当は第一の厨房が農場かもしれません。料理は材料の良し悪しで全てが決まります。調理技術が一定の水準であれば材料次第です。料理人はちょっと手を加え、煮炊きをして調えるだけです。そのように考えると、料理人が農の世界に入っていくことはごく自然なことなのではないでしょうか、私は、現役を続ける間この両道を歩き続けるつもりです。トラクターに乗る料理人であり続けたいのです。
 

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